Philosophy of Ministry
牧会理念Our Philosophy
牧会理念とは
教会は何のために存在し、何をなしていくべきなのかということに関して、真剣に議論されることはあまりありません。しかし 存在目的と聖書的な指針を正しく理解することなくして、主に喜ばれる教会形成と運営をなすことは不可能です。 『牧会理念』は、この大切な質問に焦点を当て、聖書に基づいて教会の目的と働きを確認するために教会において明瞭にされていなければならないのです。
聖書的な牧会理念とは、牧会の働きにおけるあらゆる選択や決断を導く譲ることのできない聖書的原則を指します。
この原則は新約聖書に記されている教会に関する教えと記述から現代の教会の働きに関する聖書の明白な教えと示唆される方法を注意深く学ぶことによって知ることができます。教会に関する聖書の教えに基づく明瞭な牧会理念を持つことによって、教会はその存在と働きのあらゆる面において、単に「なぜ」という疑問に答えるだけでなく、「何を」「どのように」という疑問に対して聖書に基づく回答をすることができるようになります。
わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。
マタイ 16:18c
教会の存在目的
教会は神の栄光を地上において明確に現すことを通して、神を礼拝するために存在する。これはイエス・キリストを主と信じ従う者たちがキリストの似姿に日々変えられていくこと (教化) とキリストを信じない者たちがキリストの福音を信じ救われること (伝道) を通してなされる。
礼拝
パウロはエペソ 1:4–6 で「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」と記している。全被造物は神の栄光を現すために存在するが、教会は特に神の恵みと憐れみによって「選ばれた種族、王である祭司、聖な る国民、神の所有とされた民」であるがゆえに、神のすばらしさを豊かに現す責任を負っている (Iペテロ 2:9)。
礼拝とは単に礼拝に参加することでも、賛美をすることでもない。礼拝とは神の栄光を褒め称えることであり、それは教会に属するすべての信徒が、毎日の生活のあらゆる分野において果たさなければならない責務である (Iコリント 10:31)。
教化
キリストを信じる信仰によって救われた者たちはキリストを頭とするキリストのからだに加えられる (Iコリント 12:27; エペソ 1:22-23; 4:12)。このからだは一人一人の信徒が「栄光から栄光へと」キリストに似た者に変えられていくことを通して成熟していく(IIコリン ト 3:18)。
パウロの働きの目的が「すべての人を、キリストにある成人として立たせるため」(コロサイ 1:28) であったように、教会はすべての信徒が成熟した信徒となるためにその働きをなさなければならない。
神は信徒一人一人に御霊の賜物を与え、皆が賜物を正しく用いることによって、全体の成長をもたらすことを計画されている (ローマ 12:1‒9; エペソ 4:7‒16)。信徒が賜物を用いるのは「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるため」である とペテロは告げている (Iペテロ 4:10–11)。これは教会が礼拝という存在目的を成就する上で不可欠なことであり、地上において教会の全うすべき大きな責任でもある。
伝道
イエスが信徒に与えた大宣教命令は、「弟子を作る」ことであるが、伝道は弟子を作る上での第一番目のステップである。伝道とは、神を崇めることをせず、神に逆らって生きる人々に対して、彼らの罪を明らかにし、神の怒りと裁きがあることを告げ、キリストがこの怒りと裁きから彼らを救い出すことができる救い主であることを示し、主を信じ従うように勧めることである。
人の救いは一方的な神の恵みの業であり、信徒の働きによってもたらされるものではないが、神は教会を用いて福音を宣べ伝えることを選択されている (マタイ 28:19–20; 使徒 1:8; ロ ーマ 10:12–15)。それゆえ教会は未信者に対する伝道の働きを熱心に行い、罪人を義人に変える神の偉大な御業を通して神を崇めていかなければならない。
教会の基本指針
教会は、みことばを忠実に説き明かし、互いに成長し、地域社会にイエス・キリストの福音を宣べ伝えることを通して、神のすばらしさを大胆に現すことに専念しなければならない。このことを実践するに当たって、何よりも大切なことは教会のあらゆる働きを導く聖書的な指針を持つことである。私たちは何をどのようにするのかということに焦点を当て、様々な方法論を追求して混乱や分裂を経験する。しかし本当に重要なのは「何を」ということでも「どのように」 ということでもない。「なぜ教会はこれらのことをするべきなのか」という問いこそが、 何をどのようにするのかということを決定づけるのである。以下の四項目はこの最も重要な質問の回答である。
神の栄光を現す
第一コリント 10:31
信徒はすべてのことを神の栄光のためになさなければならない。しかし、人の知恵、力、努力によってこのような生き方をすることは不可能である。 神の栄光を現す生き方とは何か、またどのように栄光を現す生涯を送ることができるかを、みことばを通して正しく理解しなければならない。そして、すべての信徒に内住する聖霊の助けがなければ、神を崇めることができないことを私たちは知る必要がある。
福音を知り、伝え、生きる
エペソ 2:1–10; 第一コリント 15:3–5
福音はパウロが「最もたいせつなこととして伝えた」ものであり (Iコリント 15:3)、 教会の働きにあって中心的なものである。この福音は、単に未信者が救われるために必要なものであるだけでなく、信徒の成長を守る役割を果たすものでもある。福音の真理をしっかりと理解することによって、人は救いを知り、常に神への感謝と喜び、平安と希望、そして忠誠と従順を持ち続けることができる。
最も大切な命令を理解し、守る
マタイ 22:37-39
イエスは最も大切な命令が「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなた の神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という二つの命令であることを告げた (マタイ 22:37-39)。これは律法の要約であるだけでなく、教会時代に生きる信徒にとっても最も大切な命令である。主を愛することは何よりも優先されることであり、また神を愛することによってのみ、キリストが私たちを愛したように互いに愛し合うことができるようになる。
大宣教命令を守る
マタイ 28:19–20
イエスの命じた「あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ 28:19) という命令はすべてのクリスチャンが果たすべき命令である。「弟子とする」ということは人間関係を構築するということであり、その関係は「どうすればよりキリストに似た者に変わっ ていくことができるだろうか」ということに焦点を置いた関係である。この命令には伝道と教化という両方の側面があり、どちらかに偏る働きではなく、どちらも全うしなければならない命令である。
教会がなすべき働き
上記の四項目を踏まえた上で、教会が行っていくべき具体的な働きを少なくとも六つの項目に分けて挙げることができる。
講解説教
教会はキリストのからだであり、神によって建てられるものである。それゆえ教会は神が与えた設計図である聖書の言葉に沿って形成されなければならない。教会が行うあらゆる働きも、個人の生涯も、その正誤を判断するのは聖書の真理であり、その真理を説き明かすのが講解説教である。
講解説教とは聖書を説教することであり、聖書について説教することではない。それゆえ講解説教者は常にみことばが語っていることのみを人々に解き明かすことに専心するのである。聖書の著者の意図をみことばから正しく理解し、そこに記されている真理を信徒たちがしっかりと実践することができるように勧めることこそが講解説教である。著者の意図を正しく伝えるということは、単に聖書箇所を順番に解説していくことでも、使われている文法や単語を説明することでもない。ましてや聖書の箇所を利用して、自分の考えを人々に伝えることでもない。聖書のことばを利用して、 個人の意見をあたかも神の真理であるかのように押しつけることや、みことばによ って個人を攻撃するような説教は、何よりも神に疎まれるものであることを教会は理解しなければならない。
聖書的弟子訓練
イエスが十二弟子を訓練することを通して模範を示し、「弟子とする」という命令を残したがゆえに、信徒は弟子訓練の働きに従事しなければならない。この弟子訓練は、主が教えたことすべてを守るように人々を教えることである。パウロはテモテに対して「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」(Ⅱテモテ2:2) と命じている。ここにはパウロ、テモテ、忠実な人たち、そして彼らによって教えられる人たちの実に四世代の信徒たちの姿が描かれている。またパウロはコリントやピリピの教会の信徒たちに「私にならう者になってください」と繰り返し命じている (Ⅰコリント4:16; 11:1; ピリピ3:17; Ⅰテサロニケ1:6)。このように未成熟な信徒は成熟した信徒の模範とならって、主に忠実な者としての生き方を学んでいくのである。これこそが聖書的な弟子訓練であり、それは正しい教理的理解と、その教理の具体的な実践によって全うされる。
聖書的教会形成
聖書が教える教会とは建造物のことを指すのではなく、神によって贖われた者たちのことを指す。この教会は、すべての信徒の集まりを指すキリストのからだである見えない教会 (霊的な教会) と地上にある見える教会 (地域の教会) との二つに大きく区分することができる。地域の教会には、信仰告白はしているが救われていない者が含まれる場合があるが、霊的な教会には本当に救われた教会時代の信徒のみだけが属することができる。
地域の教会は霊的な教会同様、キリストを頭として存在し、聖書の教えに沿って組織され、与えられている働きを全うしなければならない。聖書はこの地域教会がどのように組織されるべきかに言及している。聖書的教会形成を目指す以上、聖書のみことばに沿った教会組織を形成すべきである。
聖書的礼拝
神はご自身の栄光を現すためにすべての被造物を創造された。人はこの被造物の中でも特別な存在であり、神に似た者として造られたがゆえに、語る言葉、取る行動、そして持つ態度をもって神のすばらしさを現すことができる。しかし罪を犯すことによって神の栄光を現すことがなくなり、またそのような生活を送ることを望まなくなった人は、創造者なる神を礼拝する代わりに、欲望のままに自分にとって都合の良い神々を造り崇めるようになった。クリスチャンはキリストの贖いの業によって罪から解放され、神の怒りから救われた者である。この救いによって罪との葛藤の中にありながらも神を崇めることを心から望み、また神の栄光を現しながら生きることができる者へと変えられたのである。
すべての真の信仰者にとって、礼拝はしてもしなくてもよいものではなく、日々の生活の中で必然的になしているものである。つまり礼拝とは単に日曜日の礼拝に参加することではなく、毎日の生活の中で神のすばらしさを讃えつつ生きることである。日曜日に持たれる公同の礼拝は、信徒各自の毎日の生活の中で行う個人の礼拝の反映である。
礼拝は神に捧げるものであり、決して信徒が受けるものではない。信徒は自分の必要を満たすために礼拝に参加するのではなく、主のみことばを学び、与えられている賜物を用いて互いに仕え合い、神を賛美礼拝することを通して神が讃えられることを求めて礼拝に参加するのである。
このように礼拝の目的が神を讃えることであるがゆえに、日曜礼拝は未信者を対象として行われるのではなく、イエス・キリストを自分の救い主であり、主であると告白し、神を心から愛し従っていこうと願っている真の信徒たちの時間である。これは決して日曜の礼拝時に伝道的なことを行ってはならないということを意味しているのではなく、真の礼拝とは信徒によってのみ行うことができるものであるという事実を現している。それゆえ礼拝の内容は信徒を対象として考えられなければならない。
礼典
キリストは教会に対して、バプテスマ (または洗礼) と聖餐という二つの礼典を守るように命じている。
礼典としてのバプテスマは信仰をもった人物が神の権威に従うこととキリストのからだに加えられたことを象徴的に示す儀式である。バプテスマはギリシャ語の語源が意味するように浸礼によって行われなければならない。またこの儀式は信仰をもった人物が行うものであるがゆえに、嬰児や幼児に対して行われるべきではない。バプテスマは救いの条件ではなく、救いが与えられていることの象徴として、キリストの命令に対する従順のゆえに行われるものであり、この礼典はすべての信徒が救いの証しとして一度行うものである。
聖餐は罪を悔い改め、主を信じる者たちすべてのためになされたキリストの贖いの働きを覚えて行うものであり、教会によって継続的に行われる儀式である。聖餐式は軽々しく行われるべきものではなく、一人ひとりが自らの信仰を吟味する機会として用い、主の前に未告白の罪を告白し、キリストの御業のすばらしさを心から感謝しつつ行われるものである。聖餐式はパンと杯をもって行われる。これらはキリストの身体と血を象徴し、 信徒はこれらをもって十字架での主の死と贖いの業を覚えるのである。聖餐式がこのような意味を持つものであるがゆえに、この儀式は信徒のみが参加することができるものであり、未信者は聖餐式に列席することはできても、それに参加することはできない。
伝道
教会の地上における大きな責任の一つは、「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(Iペテロ 2:9) とあるように、神の救いの業を宣べ伝えることにある。それは自分たちの周りにいる家族、友人、そして隣人から始まることである。それゆえ、教会は積極的に地域での伝道を行うように努めなければならない。
また伝道は教会の近隣だけで行われるものではない。教会は「あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ 28:19) と命じられている。それゆえ、教会は国内、また海外における働きにも関心を払い、必要なサポートおよび働きに参加しなければならない。